高校生の時分から、鎌倉に行くのが好きであった。東京から電車で1時間くらいということもあり、気軽に行ける観光古都の地ともなっていたのであろう。鎌倉への道中、鎌倉を舞台にした本やガイドブックを読み、ペンタックスの一眼レフカメラを携えて、四季おりおりの風景を楽しみながら、多くの寺社を訪ね歩いた。
その鎌倉の寺の中で最も印象に残っているのは、松葉ヶ谷にある妙法寺という古寺である。裏山に続く苔むした石段が有名で、新緑のころには、シャガの白い花が緑の草むらの中に映えていて、寺全体の凛とした空気を醸し出していた。当時の住職は、どこかの大学で教鞭をとっていたような記憶がおぼろげながらあり、初夏のころに伺うと、学生と思われるグループと一緒に、草取りをしていたイメージが残っている。
鎌倉にまつわる本が、本棚にある。その1冊が司馬遼太郎の『街道をゆく42:三浦半島記』である。鎌倉は、いうまでもなく源頼朝が幕府を開いた古都である。その頼朝には存念があったと、司馬は言う。存念とは、経営品質の用語で言えば、「理念」「あるべき姿」とも言い換えることができよう。彼の持っていた存念とは、大きくは律令制国家から武士団の利益をまもり、小さくは武士団相互の紛争を公平に裁くということである。そのためには、征夷大将軍にならなければならなかった。その職には、辺境の政治について専決権がゆるされるのだと、司馬は述べている。
そして、その存念は、頼朝の死後、幕府の基本法のようにして残された。ただし、それを理解しているのは、ごくわずかな人達だけだという思いが、妻の政子にあったという。自分と、実家の父の北条時政、それに弟の義時ぐらいのものではないかと、政子は思い込んでいたのだそうだ。頼朝の脳裏にあった武家政権の理念は、その死後、尼になった、ときには「尼将軍」などといわれた北条政子と、その弟の義時が、たれよりもよく理解していたとすれば、政権が北条氏に移ったのは、当然だったような気がする、と司馬に言わしませている。
つまり、経営理念という抽象概念が、幕府政治というリアルな組織的生き物を引導することができたと言わざるをえない。いわゆる、価値前提の経営を実践したとも言えるのではないだろうか。この理念というものは、とくに経営品質ばかりの話ではない。鎌倉における頼朝の存念を読み返しつつ、組織経営における理念の持つパワーと重要性というものを、改めて認識させられた思いがした。
余談になるが、この本には、当時の経済観念らしき情景が、青砥藤綱の逸話で紹介されている。ときに、よく治まったといわれる北条時頼の世である。藤綱は、名吏として知られた財政家であり、訴訟の公平な裁き手としても名を馳せていたことが太平記に残されているという。急ぎの用ができたのであろうか、藤綱は夜中に役所に行く途中の橋の上で、いまでいう財布から銭十文を川に落とした。たかが十文であったが藤綱はあわて、人を走らせて銭五十文で松明十把(じゅっぱ)を買わせ、川を照らして十文をさがし獲た。
この話を聞き、役所の人々が笑った。つまり、藤綱さん、四十文の損じゃありませんか。それに対して藤綱は、「あなたたちには、経世のことがわからない」と応じたという。四十文の損は個人の経済であるが、川に銭十文を失うは永久に天下の貨を失うことにある。さらにいえば、銭五十文を松明の代として散じたのは、そのぶんだけ世を賑わせることになる、と言ったという。
以上が、いまでもある青砥橋に因んだ逸話であるが、経済という原理に思いを馳せさせてくれた、妙に印象に残る話ではあった。
参考文献:司馬遼太郎(2009)『街道をゆく42<新装版>三浦半島記』朝日新聞出版
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