高橋義郎のブログ

経営品質、バランススコアカード、リスクマネジメント、ISO経営、江戸東京、などについてのコミュニティ型ブログです。

経営品質の散歩道 3.戦略とプロセスイノベーション

 11月に大阪にゆく仕事があった。ちょうど、その前日が祝日だったので、かねてより訪ねてみたかった東大阪の司馬遼太郎記念館に立ち寄ってみた。建物の設計は、かの有名な安藤忠雄さんだそうで、展示されていた建築設計図を見てみると、ある1点からコンパスで複数の円を描いた放射線上に建物や植樹が幾何学的に配されていたのが、印象的だった。

 司馬遼太郎記念館は、いつか来てみたかったところである。道中、彼の最終執筆物となった『街道をゆく43:濃尾参州記』を読みながら来た。そのせいもあって、地下1階メインフロアーの書庫に並んでいる『名古屋叢書』や『徳川家康公伝』などの徳川家康関係の蔵書が目に飛び込んできて、なんだか嬉しかった。蔵書巡りをしているうちに、『古典落語体系』も、街道をゆくシリーズのどこかで出会った書名の記憶がある。司馬さんは、これらの資料を読みながら、あの街道をゆくシリーズを書いたのだなと、思わず感傷的になってしまった。

 さて、織田信長のことである。彼は尾張衆をひきい、勝ちがたい敵とされた今川義元の軍に挑み、ひたすら義元の首一つをとることに目的をしぼり、みごとにその目的を達した。経営でいうところの「戦略は選択と集中」という言葉が、ぴったりとあてはまる歴史的な実践事例であろう。さらに信長は、旧習の不合理を憎み、強烈な自己流の合理主義をもって物事を我流に変えた。たとえば、貴族文化である放鷹(ほうよう)は服装やマナーにうるさいものだったが、単に鷹狩りではないか、であれば獲物を多く獲ればよく、服装も仕掛けも変え、みずから猟師のようになって山野を駆けた。そのうわさが武田信玄に届いたときに、信玄を考え込ませたと、司馬さんは書いている。

 長めの槍を持たせた足軽集団も、槍先が相手に早く届くアイデア武器として、この時代では特徴のあるものだったらしい。義元を破ったときの騎兵の集団運用による奇襲戦術といい、いわゆる「プロセス・イノベーター」だったのだろう。そのようにして、三河や濃尾の兵と比べると惰弱な尾張兵をもって、強力な軍団に育てあげた。「良い(変革)プロセスが良い(卓越した)結果を生む」という、経営品質のセオリーも窺われよう。そのうえ、若いころの奇跡ともいうべき義元襲撃の勝利を、ついに生涯みずから模倣しなかったことでも凄みがある。経営の視点からも、教訓になるところだ。「過去の成功体験におぼれる」ことによって事業を危うくするといった経営者の話を聞くにつけ、そこが信長の偉いところだと、司馬さんも述懐していた。そして、その翌年2月に、司馬さんはこの世を去る。

 余談だが、義元の祖のなかで、出色の人物だったのが室町初期の今川了俊(りょうしゅん)である。彼には著作が多く、「今川状」というのも了俊の文章である。弟の仲秋を訓すという形式の家訓の書で、当時としては優れた日本語の見本というべき文章だったと、司馬さんは紹介している。やがて、民間にまでいきわたり、児童が学ぶ寺子屋の教科書にもなった。江戸初期には女子教育のための「女今川」もでき、「今川で、さらした嫁は、灰汁(あく)が抜け」という川柳にもうたわれた。あの嫁は、さすがに女今川をよく読んだだけに違っている、という意味である。経営品質に関わっておられる諸氏にも、「さすがに経営品質をよく知っているだけに、経営のセンスも人物の品格も違うね」、と尊敬の念で語られていることを信じてやまないところだ。

参考:司馬遼太郎(2009)『街道をゆく43<新装版>濃尾参州記』朝日新聞出版

以上