高橋義郎のブログ

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岩槻の「ほてい家」に見る江戸料亭の粋

 住まいから車で30分ほど北へ向かって走ると、ひな人形の産地として有名な岩槻に着く。さらに、国道16号から岩槻駅への道を数分行くと、右手に老舗料亭「ほてい家」の黒い長屋門が見えてくる。長屋門は歴史を刻んだ姿で建っているためか、入るには少し勇気が必要だったが、それは無駄な杞憂であった。妻と一緒に初めて「ほてい家」の黒門をくぐったのは、もう10年近く前になるだろうか。確か、2011年3月の東日本大震災直後にも店を開いていて、震災の影響が冷めやらぬためか、来客がいない客席に妻と一緒に食事を楽しみに訪ねた。震災後早々にもかかわらず客を待っていたのは、老舗料亭の心意気というものであったろう。 
 岩槻(岩付)の名が歴史上初めて登場するのは、「長谷河親資着到状」という古文書のなかで、室町時代初期の永徳2年(1382)のことだという。江戸時代まで岩槻周辺には利根川(現・古利根川)、荒川(現・元荒川)などの大河が流れ、また東北地方に通じる主要な街道が通るなど水陸交通の要衝だった。このため、岩槻は軍事上の拠点として時の有力武将から重視され、城が築かれた。そして、江戸時代に日光東照宮が造営され日光社参が始まると、日光御成道が整備され、城下町、宿場町として、岩槻は武蔵国東部の中心地として大いに栄えた。(同市HP)
 ほてい家は、この江戸の頃に創業した伝統を今に受け継ぐ老舗料亭で、近世、近代には「布袋屋」と書き、岩槻藩主大岡家中の江戸藩邸詰めの武士が岩槻に来ると布袋屋でもてなしたと「日記」に記されているという。埼玉県営業便覧(明治35年)には「蒲焼御料理 布袋屋」と記されているらしい。大正期には「布袋屋の茶碗蒸し」が鰻とともに人気を博した。(同家HP)
 筆者は、ほてい家の玄関を入るのが好きである。ドアが開き中へ入ると、料亭独特のかほりを交えた空気が私たちを包んでくれて、そこでは江戸の粋や雅を感じさせてくれる非日常の空間に浸れることができるのである。料亭の皆さんのもてなしも快いもので、老舗料亭の格を上げているといえる。昨日も妻の買物とドライブを兼ねて岩槻へ行き、ほてい家さんの長屋門をくぐろうとしたが、繁盛の証か、駐車場がいっぱいで諦めた。そもそも、老舗料亭でゆったりと江戸の粋と味を堪能するには時を選ばねばならず、やはり少し遅めの昼食が良さそうである。