高橋義郎のブログ

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『街道をゆく 21 芸備の道』を読んで

 まだ広島空港が市内に近い場所にあったころ、仕事で広島県の三次(みよし)市へ出張する機会が何度かあった。三次へは広島駅から芸備線で行くか、あるいは車で移動することもあった。仕事の合間に鳳源寺(ほうげんじ)にも立ち寄り、赤穂義士、大石良雄が手植えしたという枝垂桜がある庭も見た記憶がある。霧が湧き出る地形でもあり、三次は霧の町とも呼ばれる。そのせいか、三次浅野家の代々の当主が病気で若死にするために長くは続かなかった。若死の原因は、結核であったという。
 三次への街道沿いに吉田町があり、毛利元就が居城の郡山城を築いたところである。彼は政治の要諦として、「其の人を侮るものはその土(くに)に君たらず」ということを常に言っていたという。そのような政治姿勢のためか、当時の安芸門徒への対応も悪からず、その政治姿勢は経営の視点からも注目して良いと思われる。元就が毛利家を相続して以来、大きな勢力を持っていた尼子氏が元就を攻めつぶす最悪の事態に備えるために、元就はあらゆる手を打っていた。その基本方針を支える基調となる要素は、領民撫育と一郷団結主義であった。元就の領民撫育は徹底していて、「いっそ農民と一緒に」という思想が最初から元就にあったと言われている。具体的には農民に対し、領主と運命を共有する意識を持たせることであったが、それを実践することは、なかなか難しいことであったろう。
 事実、元就は、尼子の大軍が来襲したとき、領内の農民とその家族をことごとく郡山城の中に収容してしまった。このことは、かれの撫育策が本物であったことを示している。元就の戦略は、まず山城である郡山城に閉じこもり、来襲軍が疲労するのを待ち、その間、彼が臣礼をとってきた大内氏から援軍を仰ぎ、その到着とともに尼子軍の労を打つというもので、弱小の領主が、山陰・山陽の兵をこぞってやってくる尼子氏と対抗するには、それ以外になかった。元就は、郡山城主になったときから、この型を考え続けてきたのであろう。そのためには、農・商と一つにならねばならない。その功利性が、やがて元就の基本的な政治思想になっていき、山陰・山陽を覆う勢力になってからも変わらなかったと、司馬遼太郎は書いている。
 三次への出張時に吉田へ立ち寄ろうと何度も思ったが、結局、その想いは叶わなかった。いまになって思えば、誠にもったいないことである。

(出所:司馬遼太郎(2013)『街道をゆく21<新装版>芸備の道』朝日新聞出版)