高橋義郎のブログ

経営品質、バランススコアカード、リスクマネジメント、ISO経営、江戸東京、などについてのコミュニティ型ブログです。

『濃尾参州記』を読んで

 ちょっと気分を変えたいときに本棚から引っ張り出す本の1つに、司馬遼太郎の『街道をゆく』シリーズがある。「濃尾参州記」は、その執筆中に司馬遼太郎が亡くなった未完の書である。巻末の週刊朝日編集部村井重俊氏の追悼余話にある「もし司馬さんがお元気だったら、きっと笑って言われるに違いない。名古屋ってほんとにツイてない所だね」という一文が印象に残る。未完のために文章量が少ないせいか、巻末には前述の村井氏や安野光雅画伯の余話や、安野画伯のスケッチ画と司馬さんの取材中の写真が載せられているこの文庫本は、パラパラとめくり直すたびに、妙に懐かしい想いがするのが不思議だ。
 濃尾参州となれば、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康が登場する。その中で、信長の戦略について触れたい。信長の一代のなかでも、若いころの桶狭間への急襲についてである。彼は尾張衆をひきい、いまの名古屋市域を走った。勝ちがたい敵とされた今川義元の軍に挑み、ひたすら主将義元の首を一つをとることに目的を絞り、みごとに達した。それは、戦略の選択と集中とか、全体最適化戦略とも言えるかもしれない。
 今川方は、長蛇の列をなして行軍している。信長にすれば、不意に出てその中軍を衝き、義元一人の首をあげることのみを考えていた。あげぞこねれば、信長方が全滅する。この作戦において信長がやろうとしていたのは、近代戦術でいえば騎兵の集団運用による奇襲であった。雨中、彼は部下たちに最後の命令をあたえた。突き捨て、切り捨てにせよ、ひとすじに駿府どのの御首級をあげることに目標を集中させたのである。
 やがて、義元は織田軍によって首を搔き取られた。このとき、信長は義元の死を知ると、全軍に引き上げを命じ、風のように戦場を去り、熱田を経由して清洲城にもどった。事前に立案した方針と戦略に従えば、当然の処置であったろう。
 村井氏の余話に戻るが、「信長の偉い所は、桶狭間の成功におぼれなかったところだね。人間はいちど成功すると、同じことを繰り返して失敗します。信長は二度と少人数での奇襲をしなかったからなあ」と、司馬さんは村井氏に話していたと書いている。司馬さんの「街道をゆく」シリーズは、近江から始まっている。「近江というこのあわあわとした国名を口ずさむだけでもう、私には詩がはじまっているほど、この国が好きである」というくだりは、筆者も諳んじることができるくらいに印象に残っている文章表現である。シリーズの最初と最後の稿を読み直す毎に、街道記の心地よいかほりが漂ってくるのは、筆者だけであろうか。

(出所:司馬遼太郎『街道をゆく43濃尾参州記』朝日新聞出版、2009年5月)