高橋義郎のブログ

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毛利元就の領民撫育戦略

 もう30年ちかく前のことになりますが、勤務していた会社の用務で、たびたび広島県の三次(みよし)へ行く機会がありました。ときには広島駅からお迎えの車でゆくこともあり、あるいは時間をかけて鉄道でゆったりと北上したことも、いまでは楽しい思い出となっています。最近になって「街道をゆく21」の芸備のみちを再読してみたところ、三次のことが書かれていました。懐かしく読み進むうちに、三次へゆく途中で吉田に立ち寄っておけば良かったかなと、少し残念な気持ちになりました。その理由は、毛利元就が家督をついで拠った郡山城があったからです。元就にとって郡山城というのは、単に居城というものだけではなく、郡山という山を身ぐるみ要塞化し、そのリスクマネジメントとしての領民撫育と一郷団結主義をとっていたことを知ったからです。

 もともと元就の所領は狭く、彼が農民全員と顔なじみだったとすれば、農民と一緒にという思想が芽生えても不思議ではなかったかもしれません。そして、元就は敵である尼子の大軍が来襲したとき、領内の農民とその家族をことごとく郡山城のなかに収容してしまったのです。このことは、彼の領民撫育策が、言うだけのごまかしではなかったことを表していると考えられます。彼の戦略は、まず郡山という山城に閉じこもり、来襲軍が疲労する間に大内氏からの援軍を仰ぎ、その到来とともに尼子軍を打ち破るというものでした。そのためには、農や商と一つにならなければならない。元就は、郡山城主になったときからその策を考え続け、元就の基本的な政治思想になっていったにちがいないと司馬さんは書いています。

 考えてみれば、城内に多くの非戦闘員を入れるのですから、足手まといにもなり、食糧との闘いとなる籠城には不利であり、城の戦闘価値は大いに低下するはずですが、元就はそれを逆手にとり、収容することによって士気と団結を高めるという方向に価値の軸を移したといえます。ビジネスエクセレンスモデル(経営品質経営)におけるリーダーシップと方針・戦略、それに従業員満足といったカテゴリーを併せ考えるとき、元就の事例は大いに参考になるのではないでしょうか。

(参考/出典:司馬遼太郎「芸備のみち」『街道をゆく21』朝日新聞出版、2013年、第3刷)