高橋義郎のブログ

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頼朝の存念と経営理念

 企業理念という言葉があります。「理念なき企業は滅ぶ」などというタイトルの書籍も出版されていたように記憶していますが、理念、ビジョン、ミッション、方針などという用語が飛び交い、それらの違いは何ですかといった質問は、今でも時折見受けられます。
 「三浦半島記」を読んでいたら、「頼朝の存念」という項がありました。存念と理念とは類似した意味なのかなと思いながら、読み進んでみました。「三浦半島記」によれば、頼朝が鎌倉に幕府を開いた(というよりも、開くことができた)背景には、関東において訴訟を裁く人として期待されていたからのようです。当時、この地域社会というものは、荒くれ集団が走り回るような粗野な社会であったため、紛争が絶えなかったという日常問題を抱えていました。そこで頼朝の存念に触れてみると、大きくは律令制国家から武士団の利益を守り、小さくは武士団相互の紛争を公平に裁くことであり、そのためには征夷大将軍になって辺境の政治について専決権を確保する必要があったとあります。
 頼朝の存念があったからこそ、彼の死後にも、その存念が幕府の基本法のように残されたのでした。だからこそ、承久3 (1221) 年に朝廷方の後鳥羽上皇が中心となって幕府追悼の承久の乱を起こしたとき、政子は動揺する御家人や領主たちに対して有名な演説をし、彼らに頼朝の存念を思い起させることができ、結果として幕府はただちに反撃を決意し,戦いを幕府軍の圧倒的な勝利に導いたのでした。この乱の敗北によって公家政権は全面的に後退し,武家勢力が全国に及ぶことになり,特に北条氏一門を中心とする執権政治が展開されることになった歴史は、読者の皆さんもよくご存じと思います。
 ただ、彼にとって辛かったことは、それを理解していたのは、妻の政子と北条義時くらいのものではないかと思っていたことだといわれています。政子は長男頼家の民事や刑事の訴訟をさばく能力を認めていなかったため、北条時政を首座とする長老の合議制にしました。その理由は、頼家が頼朝の存念を理解していなかったことにもよるのでしょう。もし頼家が頼朝の開幕理念ともいうべき存念を理解し実践しようとしていれば、政子も頼家に不足している力量を補うべく必要な教育訓練を施し、ひょっとすると、私たちが知っている歴史は違ったものになっていた可能性もあったかもしれません。
 正しい経営の理念というものは、経営の方向を示し、経営に関わり参画するすべての人々の気持ちを一致させ、経営の源ともいうべきパワーを高めていける概念であることを、頼朝の存念からも窺えるのではないでしょうか。

(参考/出所)
・司馬遼太郎「三浦半島記」『街道をゆく42』朝日新聞出版、2009年、第1刷
・ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

以上