高橋義郎のブログ

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近江商人を輩出した近江八幡を訪ねて(BSC的考察)

 3日間ほど大阪と京都周辺に行く用務があったので、その帰り道に近江八幡に立ち寄ってみた。近江八幡市のホームページによると、同市は滋賀県のほぼ中央にあって琵琶湖の南東に面し、総面積は琵琶湖の約76km2を含めていて、琵琶湖で最大の島である沖島を有している。古くから農業を中心に栄え、中世以降は陸上と湖上の交通の要衝という地の利を得て、多くの城が築かれた。(写真は近江八幡の風景)

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 近江八幡といえば多くの近江商人を輩出してきたことでも有名だ。その源流は織田信長の改革精神により開かれた楽市楽座にあると言われ、豊臣秀次の自由商業都市の思想に引き継がれ、さらに近江商人の基礎を築いた。

 司馬遼太郎の「近江人を創った血の秘密」(『歴史を紀行する』文春文庫)によれば、商人的思考法とは、形而下的思考法というか、右の品物と左の品物とはどちらがどれほど大きいか、とか、どちらがどれほど値が高いか、という具体的思考法の世界ということであり、商人的体質とはそういう形而下的な判断によって自分の身動きを決める割り切った体質と言っている。

 日本の歴史には、歴史上の名士として多くの近江人が登場するし、そういう名士の数の多さでは他県を圧しているが、翻って戦国期以降の近江人の武将の名前を思い出してみると、浅井長政、蒲生氏郷、大谷吉継、長束正家、さらには石田三成がいる。これら思いつくままに書き連ねた人物から共通項を引き出すと、他県の歴史上の名士たちにはない一種の「さわやかさ」と「知的緊張感」という形而上的思考に習熟した共通体質を見出すことができると司馬は言う。

 そして、彼らはいずれも経済観念と計数に長けた経理家的素質を持っていたのである。蒲生氏郷は優れた経済政策家であり、石田三成は優れた経済技術者であったろう。彼は豊臣家の財政を運用するのに近代的な簿記のようなものを用いていたようで、彼が薩摩の島津家降伏の戦後処理の任にあったとき、そういう帳簿の作り方や経理技術を島津義久に伝授したという。三成らが身につけていた経済や商業の実務技術は、やはり彼の出身地である近江の影響は排除できないであろう。

 近江の商人の間には、そういう思想や技術があったはずで、こういう連中を輩出した近江というのは、よほど特質な地帯であり、商業という点では、他の国々と比べものにならないほどの先進性を持っていたに違いない。その背景のひとつに、近江には江戸時代から丁稚学校があったことも関係しているのではないか。むかしの商業学校というべきものがあり、明治後にそれが発展したのが近江商人の訓練所として有名だった県立八幡商業だ。戦前、大阪や東京の近江系の繊維会社には、かならず県立八幡商業の卒業生を採ったというのは、その卒業生ははじめから商人として出来が違うという理由があったようだ。

 今回の旅でも、八幡商業や、森ビルや西川ふとんの後裔を出した家々も見たが、その中で忘れてならないのが、ウィリアム・メレル・ヴォーリズの存在である。彼は滋賀県立商業学校(現・八幡商業)の英語教師として来日し、キリスト教伝道と共に、「建物の風格は人間と同じくその外見よりも内容にある」との信念で、全国で約1600にも及び建築設計に携わった。メンソレータムを日本に輸入したことや、結核療養所を作ったことも特筆できる人物である。ちょうどNHKで放映されている「あさが来た」のヒロインあさの娘(亀子)の夫(恵三)の妹(満喜子)の夫がヴォ―リズである。

 話しが若干それたが、いくつかの傍証をもとに司馬遼太郎が結論としているのは、商業的素質を持つ高麗人の帰化人が江州に多く集まり、本国の制度にならって市を開設したりして諸方と結んで商圏を拡張し、全国の行商行脚に力を伸ばしたという説を推している。近江商人が全国に店を出したときに故郷の近江で丁稚学校(商業学校)を出た人材を呼び寄せたのが華僑の風習と似ているというのも、同じ理由だ。筆者の推察では、それに加えて近江が交通と情報交流の要所であったことも挙げられよう。

 そんな近江商人の卓越さを育んだ要因をBSCの4つの視点で因果関係に並べてみれば、帰化人・華僑の影響/地理的有利性/商人育成システム構築→商人スキル・プロセスによる優れた商人実績発揮→大名・商業資本経営者からの高い評価→近江商人のブランド成立、といった具合になるのではないか。読者の意見を待ちたい。

 (以上)