高橋義郎のブログ

経営品質、バランススコアカード、リスクマネジメント、ISO経営、江戸東京、などについてのコミュニティ型ブログです。

定年退職のご挨拶

いつも大変お世話になりまして、ありがとうございます。さて、私こと髙橋義郎は、昨日3月31日(水)をもちまして、桜美林大学を70歳で定年退職しましたことを報告申し上げます。この8年間、前半は特任教授、後半は専任教授としての在職中、多くの皆様からご厚情とご支援を賜り、誠にありがとうございました。なお、4月からは個人事業主に復帰し、髙橋マネジメント研究所所長、大学院非常勤講師、ISOマネジメントシステム認証審査員などの業務を継続し、「生涯現役」を目指して再スタートいたします。皆様方におかれましては、引き続きのご指導ご鞭撻のほど、何卒、宜しくお願い致します。まずは取り急ぎ、定年退職の報告まで。高橋義郎

磨くべきは虫の眼

 日経ビジネス誌の記事を読んでいたら、「編集工学」という言葉が目に飛び込んできました。その記事とは、編集工学者である松岡正剛氏の巻頭言談話のことで、彼は編集工学の立場から、情報が経済や社会にもたらす影響を考えてきたといいます。編集工学研究所の安藤昭子氏によれば、前出の松岡氏が編集工学という考え方を創始し、同時に編集工学研究所を創設したとのことでした。編集を非常に広義な意味で捉え、私たちを取り囲む情報を取り扱う営みはすべて編集であり、その編集の仕組みを明らかにし、社会に適応していける技術として構造化し、体系化していったものを編集工学と呼んでいます。
 松岡正剛氏の談話の中に、「小さいものを見る力」と「大きい数値」についての見解が述べられています。筆者なりの受け止め方として、小さいものを見る力が備わっていれば、その小さな観察の事実から、大きな事象が洞察できるという「力」と理解しました。そして、小さなところに亀裂が入り、それが大きなことにつながるというようなことを洞察する視点が、徐々に失われているのではないか。そんな松岡氏の危惧が感じられる記事でした。また、同氏は、「1羽の渡り鳥が落ちたという事実から、農薬や化学物質の危険性を訴える本を書いた米国の生物学者」の例も紹介しています。
 ISOマネジメントシステムの認証審査をしている組織の方々が良く話してくれる言葉のひとつに、「企業の審査では、虫の目と鳥の目で見ていくべし」というものがあります。物事の全体像を掴む視点(鳥の目)と、細かな部分を見て洞察していく視点(虫の目)とを併用しながら、そこに根本的な課題や機会を見出していく取り組み姿勢が必要とのことでしょうか。磨くべきは虫の目であり、そこから鳥の目で俯瞰した立ち位置で、組織の進むべき方向と目標を示唆できるような、いわゆる経営に資する審査が実践できるというべきでしょう。
 経営戦略が堅牢な力学的計算の上に成立しているとすれば、その計算の数式の一要素が欠けると、実現は阻害されるわけです。企業が戦略を立案するとき、小さくても、大きくても、その情報の価値の厚み(量の指標ばかりに目を奪われることなく厚みの指標が重要)に注目し洞察すべきことを、松岡氏は指摘していると思われました。

(参考/出所)
・松岡正剛「大きい価値がもてはやされる時代、磨くべきは小さいものを見る力」『日経ビジネス』、2021年03月29日号
・安藤昭子「変化を味方につける創発型チームの作り方」、2018年11月22日講演https://logmi.jp/business/articles/321144

頼朝の存念と経営理念

 企業理念という言葉があります。「理念なき企業は滅ぶ」などというタイトルの書籍も出版されていたように記憶していますが、理念、ビジョン、ミッション、方針などという用語が飛び交い、それらの違いは何ですかといった質問は、今でも時折見受けられます。
 「三浦半島記」を読んでいたら、「頼朝の存念」という項がありました。存念と理念とは類似した意味なのかなと思いながら、読み進んでみました。「三浦半島記」によれば、頼朝が鎌倉に幕府を開いた(というよりも、開くことができた)背景には、関東において訴訟を裁く人として期待されていたからのようです。当時、この地域社会というものは、荒くれ集団が走り回るような粗野な社会であったため、紛争が絶えなかったという日常問題を抱えていました。そこで頼朝の存念に触れてみると、大きくは律令制国家から武士団の利益を守り、小さくは武士団相互の紛争を公平に裁くことであり、そのためには征夷大将軍になって辺境の政治について専決権を確保する必要があったとあります。
 頼朝の存念があったからこそ、彼の死後にも、その存念が幕府の基本法のように残されたのでした。だからこそ、承久3 (1221) 年に朝廷方の後鳥羽上皇が中心となって幕府追悼の承久の乱を起こしたとき、政子は動揺する御家人や領主たちに対して有名な演説をし、彼らに頼朝の存念を思い起させることができ、結果として幕府はただちに反撃を決意し,戦いを幕府軍の圧倒的な勝利に導いたのでした。この乱の敗北によって公家政権は全面的に後退し,武家勢力が全国に及ぶことになり,特に北条氏一門を中心とする執権政治が展開されることになった歴史は、読者の皆さんもよくご存じと思います。
 ただ、彼にとって辛かったことは、それを理解していたのは、妻の政子と北条義時くらいのものではないかと思っていたことだといわれています。政子は長男頼家の民事や刑事の訴訟をさばく能力を認めていなかったため、北条時政を首座とする長老の合議制にしました。その理由は、頼家が頼朝の存念を理解していなかったことにもよるのでしょう。もし頼家が頼朝の開幕理念ともいうべき存念を理解し実践しようとしていれば、政子も頼家に不足している力量を補うべく必要な教育訓練を施し、ひょっとすると、私たちが知っている歴史は違ったものになっていた可能性もあったかもしれません。
 正しい経営の理念というものは、経営の方向を示し、経営に関わり参画するすべての人々の気持ちを一致させ、経営の源ともいうべきパワーを高めていける概念であることを、頼朝の存念からも窺えるのではないでしょうか。

(参考/出所)
・司馬遼太郎「三浦半島記」『街道をゆく42』朝日新聞出版、2009年、第1刷
・ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

以上

 

岩波茂雄と教員退職理由

 たしか中学生のときだったと記憶していますが、ある先生が「岩波書店(あるいは岩波茂雄だったか)を知っているか」と私たちのクラスで問いかけたことがありました。彼がどのような話をしたのかは覚えていませんが、その後、岩波新書や岩波文庫を読むたびに、その場面を思い出します。近頃再読した「神田界隈」には、その岩波茂雄について触れていました。

 岩波茂雄は、長野県諏訪の中州村の農家で生まれ、第一高等学校に入り、東京帝国大学哲学科選科を卒業し、神田橋近くにあった私立学校の神田高等女学校で教鞭をとったようです。岩波は安い月給にもかかわらず無我夢中で教え、岩波の同級生で終生の友人も、情熱と精励とをもって報酬に頓着なく教育にあたったものは少ないと言っていたようでした。しかしながら、人間というものは熱中し集中しすぎると反動がくるものらしく、一種の無気力感が襲ってきたということでしょうか、教員をやめて転業しようと思い、紆余曲折の末に、神田高等女学校を退職して古本屋を開店したとのことでした。

 教職を退いた理由として(彼の文章によると)、「人の子を賊(そこな)ふ如きことより外(ほか)出来ない教育界より去ることにした」ということだったそうです。このような鋭い言葉を教育界に従事している者が聞けば、抵抗を感じる方々も多いと思われますが、頭の半分には抵抗感もあるけれど、残りの半分には同調する気持ちもあるという意見も聞こえてきそうな気がします。

 考えてみれば、筆者もこの8年間、大学院や大学の教員として教鞭をとってきた立場でした。岩波茂雄のような切り口のするどい文句を使う気持ちにはなれないのですが、教育面で、どのような貢献をどのくらい実践できたのかと問われれば、回答に窮する質問かもしれません。花を咲かせるには1年、木を育てるには10年、そして人材を育成するには〇年と言われます。今月末で70歳の2度目の定年退職を迎え、岩波茂雄の話を読みながら、なかなか難しい命題を背負ってきた8年間だったのだなと想う今日このごろです。

(参考/引用:司馬遼太郎「神田界隈」『街道をゆく36』朝日新聞出版、2010年、第2刷)

5つの視点で考えるISO9001

 バランススコアカード(BSC)のセミナーでよく聞かれる質問のひとつに、「BSCとISOマネジメントシステム(たとえばISO9001)との関係は」とか、「BSCをISO9001の目標管理に使うポイントは」などというものがあります。そこで、今回は上記の質問に答える説明をしてみたいと思います。まずは、企業経営の活動の流れを表すBSCの4つの視点について説明します。BSCは「財務」「顧客」「プロセス」「学習と成長」の4つの視点の因果で構成されていますが、筆者は「経営者の視点」を加えて5つの視点の間の因果関係で説明することが多くあります。この因果関係は、以下のような流れで表すことができます。

【経営者の視点】(例えば、経営のビジョン、方針、目標などを明らかにして、どのような経営の方向を示すのか?)
               ↓
【学習と成長の視点】(例えば、経営目標を達成するため、あるいは変革や改善の視点の目標を達成するために、どのような組織能力や個人能力を高めるか?)
               ↓
【変革や改善のプロセスの視点】(例えば、経営目標を達成するため、あるいは顧客の視点の目標を達成するために、どのような価値創造のプロセスを構築し成果を高めるか?)
               ↓
【顧客(あるいは社会)の視点】(例えば、経営目標を達成するため、あるいは財務の視点の目標を達成するために、どのように顧客(あるい社会)の評価を高めるか?
               ↓
【財務(あるいは企業価値)の視点】(例えば、財務の目標、あるいはどのような企業価値を高めるのか?)

  上記の5つの因果関係を言葉で説明すれば、まずは、どのような会社になりたいのか、その目指す姿を描くことから始まります。その具体的な例としては、経営ビジョンやミッション、経営方針や戦略、そして経営目標などがあるでしょう。それらで示される「なりたい姿」を実現していく基盤となるのは、組織力(技術や設備など)や個人力(力量やモチベーションなど)が考えられますので、例えば、経営目標を達成するため、あるいは変革や改善の視点の目標を達成するために、どのような組織能力や個人能力を高めるか、その目標を設定することが必要になります。そして、それらの組織力や個人力は、実際に企業や会社が生み出す価値(製品やサービスなど)を高める支援、言い換えれば、例えば、経営目標を達成するため、あるいは変革や改善の視点の目標を達成するためにつながるような目標の設定が必要になります。これを、両方の視点の因果関係と呼びます。

 そして、企業や会社が、より高い価値(より良い製品やサービスなど)を生み出す目標を設定し、例えば、経営目標を達成するため、あるいは顧客の視点の目標を達成するために、どのような価値創造のプロセスを構築し成果を高めるか、その目標と行動計画を作り実践していくことが必要でしょう。ここにも、プロセスの視点と顧客の視点との因果関係が構築されてきます。その結果、顧客が製品やサービスに対して高い評価をしてくれれば、顧客はお金を払って製品やサービスを購入してくれますから、その結果として売上や利益などの財務目標が達成できることになり、ひいては企業の価値が高まることになります。ここでも、顧客の視点と財務の視点の間に因果関係が成立します。

 一方、品質マネジメントシステム(ISO9001)は、項番4から項番10までの要求事項で構成されています。具体的に述べますと、4.組織の状況、5.リーダーシップ、6.計画、7.支援、8.運用、9.パフォーマンス評価、10.改善、とあります。これらの項番はBSCの5つの視点とマッチングしますので、BSCで目標設定すると、ISO9001の要求事項に準じた目標設定ができるという考えが成り立ちます。この考え方を前述の因果関係の流れに当てはめますと、次のようになります。

 【経営者の視点】(例えば、経営のビジョン、方針、目標などを明らかにして、どのような経営の方向を示すのか?) ☞ ISO9001の項番4,5,6に該当
               ↓
【学習と成長の視点】(例えば、経営目標を達成するため、あるいは変革や改善の視点の目標を達成するため に、どのような組織能力や個人能力を高めるか?) 
   ☞ ISO9001の項番7に該当
               ↓
【変革や改善のプロセスの視点】(例えば、経営目標を達成するため、あるいは顧客の視点の目標を達成するために、どのような価値創造のプロセスを構築し成果を高めるか?) ☞ ISO9001の項番8に該当
               ↓
【顧客(あるいは社会)の視点】(例えば、経営目標を達成するため、あるいは財務の視点の目標を達成するために、どのように顧客(あるい社会)の評価を高めるか? 
 ☞ ISO9001の項番9に該当
               ↓
【財務(あるいは企業価値)の視点】(例えば、財務の目標、あるいはどのような企業価値を高めるのか?) ☞ 項番9及び10に該当

 いかがでしょうか。もし読者の方々のISO9001の運用や改善にマンネリ化が目立ち始めたら、上記の5つの因果関係を思い起していただけると、ISO9001の規格条項の意味、すまわち、何のために目標や計画を作成し実行するのか、という要求事項の真の「こころ」や「狙い」を振り返る機会となるのではないでしょうか。

(参考:
高橋義郎『使えるバランススコアカード』PHPビジネス新書、PHP研究所、2007年)
日本工業標準審査会『品質マネジメントシステムー要求事項』日本規格協会、H27年)

毛利元就の領民撫育戦略

 もう30年ちかく前のことになりますが、勤務していた会社の用務で、たびたび広島県の三次(みよし)へ行く機会がありました。ときには広島駅からお迎えの車でゆくこともあり、あるいは時間をかけて鉄道でゆったりと北上したことも、いまでは楽しい思い出となっています。最近になって「街道をゆく21」の芸備のみちを再読してみたところ、三次のことが書かれていました。懐かしく読み進むうちに、三次へゆく途中で吉田に立ち寄っておけば良かったかなと、少し残念な気持ちになりました。その理由は、毛利元就が家督をついで拠った郡山城があったからです。元就にとって郡山城というのは、単に居城というものだけではなく、郡山という山を身ぐるみ要塞化し、そのリスクマネジメントとしての領民撫育と一郷団結主義をとっていたことを知ったからです。

 もともと元就の所領は狭く、彼が農民全員と顔なじみだったとすれば、農民と一緒にという思想が芽生えても不思議ではなかったかもしれません。そして、元就は敵である尼子の大軍が来襲したとき、領内の農民とその家族をことごとく郡山城のなかに収容してしまったのです。このことは、彼の領民撫育策が、言うだけのごまかしではなかったことを表していると考えられます。彼の戦略は、まず郡山という山城に閉じこもり、来襲軍が疲労する間に大内氏からの援軍を仰ぎ、その到来とともに尼子軍を打ち破るというものでした。そのためには、農や商と一つにならなければならない。元就は、郡山城主になったときからその策を考え続け、元就の基本的な政治思想になっていったにちがいないと司馬さんは書いています。

 考えてみれば、城内に多くの非戦闘員を入れるのですから、足手まといにもなり、食糧との闘いとなる籠城には不利であり、城の戦闘価値は大いに低下するはずですが、元就はそれを逆手にとり、収容することによって士気と団結を高めるという方向に価値の軸を移したといえます。ビジネスエクセレンスモデル(経営品質経営)におけるリーダーシップと方針・戦略、それに従業員満足といったカテゴリーを併せ考えるとき、元就の事例は大いに参考になるのではないでしょうか。

(参考/出典:司馬遼太郎「芸備のみち」『街道をゆく21』朝日新聞出版、2013年、第3刷)

中世の環濠商業都市「今井」と時勢を考える

 社会人となって就職した会社の工場が新潟県柏崎市にあります。22歳から数年間、その工場に勤務し、その後、東京新橋にあった本社へ転勤しました。その柏崎市の名前が「街道をゆく7」に出てきます。奈良の橿原市にある今井という町について書かれている稿で、この今井の町が越後柏崎にやや似ているというのです。越後柏崎は日本海に面した海港ですが、中世末期において商品流通の中心地であったということで、「におい」が似ているということでした。

 今井の環濠(かんごう)集落は「今井千軒」と戦国期に言われた町で、江戸時代を経て現在でも旧観を偲ばせる家並みが残っています。かつて筆者も出張のついでに立ち寄ってみたのですが、町中の寺や民家の中には、軍備目的ではないかと思われるほど堅牢な建物があったように、あいまいながらも記憶しています。堺の富商で茶人でもあった今井宗久などの商人を出す素地が、堺以前にこの大和の今井という商業都市にあったことは、注目に値すると司馬さんは書いています。

 今井町のホームページによれば、その成立は戦国時代末期の天文年間と考えられ、称念寺を中心とする寺内町(寺院の境内に形成された町)として発展したそうです。かつては町の周囲に九つの門が配され、防備は厳重で、富商も多く住んでいました。話を「街道をゆく7」に戻しますと、戦国期は生産性が低下した時代ではなく逆に飛躍的に上がった時代で、商品流通が発展し、「座」の古い体制が濃厚に支配している大和においても、新しい商品流通の場をつくるのが時勢の要求であり、そのような背景で今井町が出現したのではないか。そして、今井町の商権と住民を守るために自衛の兵力を保持し、一向宗の大寺をつくり、宗教と軍事と商業の3つを整合させた新形態の都市が生まれたと述べています。 

 今井町の勃興でも感じることですが、歴史やビジネスに少なからず影響を与え続けている「時勢」という要因は恐ろしいもので、この稿を再読するなかで「時勢」という不気味な存在について、改めて考えさせられた早春の夜でした。

(参考/出典:司馬遼太郎「大和・壺阪みち」『街道をゆく7』朝日新聞出版、2017年、第4刷)

コーチングとバランススコアカード(BSC)

 数日前の日本経済新聞の記事「ジョブ型雇用に上司の壁」を読んでいるうちに、もう20年ほど前になるでしょうか、勤務していた会社の管理職研修で、コーチングのワークショップに参加したことを思い出しました。ちょうどその頃、会社の内外でバランススコアカード(BSC)の研修講師をしていましたので、早速、コーチングの内容を教材の中に取り入れました。BSCは目標展開のツールあるいは考え方ですから、目標の下位展開をするときには上司と部下のコミュニケーションの良し悪しが、重要な成功要因になります。その目標展開のコミュニケーションの部分に、コーチングをはめ込んでみたのです。

 たとえばBSCによる目標展開では、上司と部下の間で話し合い、部下の目標を決めていきます。その後、部下が目標を達成しようと行動を起こす中で、壁にぶつかって上手く目標を達成することが難しくなっていたとしましょう。そのようなときに、上司は部下と話し合いを持ち、どんな様子なのか聞いてみるはずです。そこでは傾聴が必要となります。コーチングでは傾聴が7割といわれます。部下の話を聞きながら経験談やアドバイスを織り交ぜてミーティングを進めていくのですが、大切なことは、上司は部下に解決策を与えることなく、あくまで部下自身に考えさせ行動に仕向けることです。そして、上司は随時サポートを行い、部下に目標達成を成功させてモチベーションを高め、次の仕事を与えながら成長させていくという、人材育成につなげていく手法がコーチングです。

 前述した記事には、成果型評価が基本のジョブ型は納得感がないと逆効果(疑問や不満)になること、そして、上司と部下がコミュニケーションを密にして信頼関係を築くことが今まで以上に重要とあります。その手法のひとつとして、1on1(ワンオンワン)を紹介しています。いわゆる考課面談とは異なり、悩み事やキャリアの相談にのり、経営方針への疑問などを話し合うなど「部下のためのミーティング」です。すべての部下に平等に時間を割くことにも意味があります。結果が出ない本当の理由を探り、主体的な取り組みにつなげることができれば、部下や組織のパフォーマンスも上がるはずと解説しています。1on1でも傾聴やコーチング(目標達成にむけた能力や行動を引き出す)などのスキルが必要になります。そして、働き方改革は古い体質から抜け出せない上司の改革でもあると、その記事は結んでいました。

 サーバントリーダーシップという言葉があります。本当のリーダーは、部下に信頼され、部下に奉仕し、相手を導くものだといわれます。1on1やコーチングは、上司や管理職がサーバントマネージャーに変身するための彼ら自身の育成プログラムでもあると言えるでしょう。

(参考:「ジョブ型雇用に上司の壁」日本経済新聞、2021年2月17日)

後継者に恵まれた最澄と鎌倉仏教の成立

 信州というところは、京都や鎌倉とは違った意味で好感を持てる土地柄です。京の雅や鎌倉の古都の趣ではない何かが魅力を感じさせてくれるのでしょう。日本人が懐かしいと感じる情景や風景が、あちこちに存在するからなのかもしれません。長野で冬季オリンピック開催が決定したころ、ちょうど長野市内のホテルで、その報を聞いた経験があります。そのころによく宿泊していた宿舎は、今のビジネスホテルとは違って、県庁所在地の長野を彷彿とさせる宿泊設備でした。

 東京から長野に向かっていくと、その手前に上田市があり、上田市の西方に行くと別所温泉と常楽寺があります。たしか常楽寺には優美な五重塔があったと記憶していますが、「街道をゆく9」で司馬さんは別所温泉と常楽寺を訪ね、別所温泉は湯聖がひらいたところだという持論を述べていました。常楽寺は天台宗で、天台宗は最澄が興したことは歴史の授業でも学びました。

 唐から帰国後の最澄は、自分の教学を防衛することに明け暮れたために、持ち帰ったものを整理するいとまもなく、その風呂敷包みを叡山の山頂においたまま世を去りました。最澄は前半生において恵まれ、後半生においては稔りの無い抗争にひきこまれてしまい、かんじんの教学面での作業は進まなかったようです。ただ、死後は後継者に恵まれ、最澄が叡山に風呂敷包みをほとんど解きもせずに置き捨てて世を去ったあと、弟子たちが皆で風呂敷を解き、その膨大な内容を手分けして整理したり、研究したりし、この系統から無数の学僧や思考的人物が出、ついに鎌倉仏教という日本化した仏教世界を創造するにいたりました。

 一方、空海の真言宗には、そういう華やかさは、その後なかったようです。その理由は、発展する余地がないほどに空海が生前完璧なものにしてしまったからでしょう。そのため、空海の教学は後継者によって発展しなかったのです。リーダーの歴史的評価というものは、誠に難しいものであります。

(参考及び出典:司馬遼太郎「信州佐久平みち」『街道をゆく9』朝日新聞出版、2016年、第4刷)

早すぎた平清盛の日本最初の重商政治

 日本で最も古い船泊(ふなどまり)が兵庫県の室津であるといいます。「街道をゆく9」でも、龍野から室津へ出るコースをとっていました。遣唐使は大阪湾を出て瀬戸内海をゆく中で、室津に寄港したらしい。その後、日本史に登場する平清盛は、室津入港の翌年には死んでしまい、それから数年後に平氏は滅亡します。

 日本人の多くが源氏を善とし、清盛を悪とする風潮が多く聞かれますが、グローバルビジネスの視点から考えてみると、筆者にとって平清盛のほうが魅力ある人物に見えてきます。それは、江戸期における田沼意次の重商政治とも共通するところかもしれません。清盛は海運をさかんにし、対宋貿易をもって立国しようとした点で、日本最初の重商主義の政治家だったと思えるのです。

 清盛は、公家による農地支配体制を温存したまま、商業と貨幣経済を興すことに賭けました。このため、清盛は外洋航海の基地としての一大港市を現在の神戸(当時の福原)に建設し、瀬戸内海水路整備と貿易政策に熱中したのですが、結論から言えば、早すぎたビジネスプランだったといえましょう。当時の日本には国民経済としての商品経済が無いに等しく、いわば農民とそれを収奪する貴族だけの社会だったために、人々は清盛の感覚についてゆくどころか、理解さえできなかったと思えるのです。

 ただ、博多や下関の港を整備し、福原をもって貿易基地にしようとした構想力は、まだ農業だけが産業というこの時代に合わなかったとはいえ、ただの人間ではなかったのではないかと推察されます。日本史を総じて振り返ってみると、頼朝や家康のような農業本位主義が勝ち、重商主義政治が排除されることは、陸軍vs海軍、国内派vs海外派にたとえられるような日本の風土が醸し出す歴史の繰り返しなのかもしれません。

 もし清盛が現代に生きていたら、政治家として、あるいは企業家として、どのような経営を行っていたのでしょうか。一読者の歴史的なロマンではあります。

(参考及び出典:司馬遼太郎「播州揖保川・室津みち」『街道をゆく9』朝日新聞出版、2016年、第4刷)

 

安芸門徒とネットワーク戦略

 「街道をゆく9」に兵庫県のたつの市(旧:龍野市)が出てきます。かなり以前、出張の折に龍野の街並みや城下の公園を歩いた記憶があり、懐かしくなって読み返しました。「赤とんぼ」の童謡で知られる三木露風は、播州龍野の人です。また、同書では播州門徒について触れていて、播州は一向宗(本願寺門徒)が強い土地だったと書かれていますが、たとえば、加賀一向一揆では室町末期に幕藩体制での加賀の守護大名である富樫氏を無用の者として追い出し、本願寺僧と門徒と地侍による共和制を20年も続けたということに、筆者は高い関心を持っています。

 門徒勢力の強かった土地については、加賀門徒、三河門徒、播州門徒、安芸門徒というようにして呼ばれています。三河一向一揆は徳川家康の若いころに起こり、彼も何度か命をおとしかけたと言われていますが、しかしながら、安芸門徒は一揆をおこしていないところに、別の関心も湧いてきます。「街道をゆく」シリーズに限らず、司馬さんは、なぜ安芸門徒が一揆をおこしていないのかについて注目し、もっと研究されても良いテーマではないかと、どこかで書いていたことを思い出しました。

 筆者の個人的な意見ですが、本願寺門徒の特徴は、組織的なネットワークを構築してきたことではないかと思います。前出の安芸門徒は毛利家中にも多くおり、毛利氏が織田氏と決戦するについて毛利氏を支持し、大阪の石山本願寺と締盟させることにより、毛利氏の孤立を防ぎました。播州門徒が浸透している当時の領主たちが、安芸の毛利氏に与するようになったのは、加賀における富樫氏や、三河における松平氏のような運命に陥ることを恐れたこともあるにせよ、彼らの持つネットワークを通じた工作によってではないかとも考えられます。

 門徒には強い倫理観念があると司馬さんは同書で語っていますが、組織や思想が持続的/サステイナブルな要因として、理念やビジョンが重要な成功要因であることは、現代の企業経営でも同じではないでしょうか。

(参考及び出典:司馬遼太郎「播州揖保川・室津みち」『街道をゆく9』朝日新聞出版、2016年、第4刷)

17世紀のオランダに見る組織運営モデル

 オランダに本社を置くフィリップスというグローバル企業の日本支社に、30年近く勤務していました。筆者にとっては、3つの理由で面白い会社でした。一つ目の理由は、様々な国の社員と一緒に仕事ができたことです。おかげで英語も使えるようになり、各国のビジネス文化を直接肌で感じることができました。海外から日本支社に出張してくる社員はもとより、社長がオランダ人か日本人、CFOの副社長がスコットランド人、戦略担当スタッフがベルギー人、そして彼と一緒に業務サポートをお願いしていた女性のアシスタントはスイス人といった顔ぶれに囲まれて仕事をしていた時期もありました。二つ目の理由は、グローバルな経営モデルや手法にタイムリーに触れることができたことでした。アメリカで提唱された経営手法がヨーロッパへ渡り、フィリップスなどの大企業が導入する。そのうちに日本企業が取り入れるようになると、フィリップスではどのように導入・展開しているのですかと聞きに来られる方々も多くいらっしゃいました。そのため、有難いことに人脈も広がっていきました。そして、三つ目は自己実現の機会が多く、その可能性が高い組織であったことでしょう。振り返ってみると、本社から日本支社に赴任してきたマネジメントチームは、それなりの教育訓練と知見を体得している人々が多かったようで、今になって思えば、グローバル企業の運営能力の底力を見たような気がします。

 そのようなわけで、オランダは筆者にとって馴染みの深い国であり、日本とも江戸時代を通して長く関係の深いことは周知のことです。「街道をゆく35オランダ紀行」では、そのあたりの話に多く触れています。フィリップ社についても、ゴッホゆかりの地であるニューネンに行く途中でアイントフォーフェン市に触れ、そこがフィリップ社の企業城下町であることを紹介しています。そして、オランダにとって黄金の17世紀と言われる時代に「仕事」というものにかけてはヨーロッパ随一の能力を持っていたことや、物事を組織的にやるという今日の巨大ビジネスのやり方をあみ出したことなどに話が及び、18世紀以降の英国が繁栄したビジネスモデルの先駆者として位置付けています。その象徴が、オランダ東インド会社でした。

 フィリップス社に話を戻しますと、筆者が同社に勤務していた間、オランダ本社から様々な経営管理手法導入が指示されてきました。ビジネスエクセレンス(経営品質)やバランススコアカード、それにISOマネジメントシステムやリスクマネジメントなどがそれで、それらの組織内導入と展開を通じて知見を深めることができ、関係する人脈やネットワークも広がり、いまもってそれらの恩恵を受けています。なによりも、外資系企業のビジネス文化に直接触れることができたことは、貴重な体験でした。なぜならば、現在の日本企業の多くが直面しているコーポレートガバナンスやビジネス戦略及びブランドマネジメントなど、日本を代表するような企業の経営企画部門の幹部の方々と交流をするなかで、経営の透明性や戦略思考において未だ両者には彼我の大きさを感じるからです。半ば冗談で、筆者の経営思考の半分は日本的だが、もう半分は欧州的思考になっているねと言われたりしますが、日本的経営にどっぷり浸かった視点とはまた違った角度からの見方で意見交換できるディスカッションパートナーとしての存在も貴重ではないでしょうか。ちなみに、1990年ごろから始まった経営改革と戦略転換で、フィリップス社は世界的な総合電機メーカーからヘルスケアのグローバル企業へと大変身を遂げています。

(参考及び出典:司馬遼太郎『街道をゆく35オランダ紀行』朝日新聞出版、2017年、第4刷)

日本人の均一化したがる意識

 よく聞かれる小話に、沈没する船から各国の人たちが救命ボートに乗り移る話があります。5人定員の救ボートに6人が乗り込むとすれば、誰か一人が海に飛び込まねばなりません。そのとき、納得して海に飛び込むよう仕向けるには、どの国の人に、どのように言えば良いのか。たとえば、ドイツ人には「上官の命令です」と言うのが有効だといいます。アメリカ人には「あなたには多額の保険が掛けられている」でしょうか。会社勤務時代にオランダ人の同僚が実際に語っていたことですが、オランダ人には「海の底には税金のない国がある」といえば一発だそうです。いずれも、各国民性の一般的な気質を表したジョークですが、それでは日本人には何と言えば良いのでしょうか。その答えは「皆さん、そうなさっています」でした。

 話は飛びますが、広い北海道の中で、数日間滞在したことのあるのは札幌と函館の2か所です。その他の地域を知りたくなって、司馬遼太郎の「街道をゆく15北海道の諸道」を再読してみました。まず気になったのは、江戸期に勢力を持っていた松前氏のことで、良港のある江差や函館ではなく、なぜ松前氏は北海道最南端の福山に居城地を選んだのかという素朴な疑問でした。ところが、読み進むうちに、北海道という厳寒の地でも本土とおなじような建築様式が持ち込まれ続けていることを知り、その背景には「中央」への均一化という意識が濃厚に作用していたことに関心が向いてしまいました。事実、北アジアの遊牧民などはオンドルを用いてきましたし、ロシア人は厚い壁の一部に暖炉を仕込んだペーチカにより暖を得てきました。しかし、松前藩をはじめ、北海道では本土の南方建築で間に合わせてきた文化が続いていたのです。

 もしオンドルやペーチカを使い始めれば、京を中心に発達してきた建築様式とは違ってしまい、他の日本と区別されてしまうという疎外感(あるいは危機感)を持っていたのかもしれません。司馬さんは、日本の文化と違っていると見られたくないという意識があったのではないかと同書に書いています。それは、常に中央と均一化したがる意識に影響されていることであり、そのために、日本には本格的な意味で独自な地方文化が育ったためしがないと喝破していたのです。独自の文化を造れば、中央文化と均一になれないという怖れとも言えるでしょう。

 松前氏に話を戻せば、江戸期を通じて家格をふつうの大名並みに扱われたいという思いから、松前の環境を本土に類似させたいという健気な心根が伺われます。同じような均一化したがる意識が、「皆さん、そうなさっています」という日本人の一般的気質を表すジョークにもつながっているのでしょうか。その意識は今でも日本の社会に引き継がれており、日本企業でも戦略のコモディティ化(独自性の希薄さ)が指摘される遠因と言えるかもしれません。

(参考及び出典:司馬遼太郎『街道をゆく15北海道の諸道』朝日新聞出版、2020年、第5刷)

7つ目の Decade を通り過ぎて

 Decadeという英語があります。改めて調べてみると、10年間とか、10を単位とする1群などと解説されています。私事で恐縮ですが、数日前に7つのDecadeを経た誕生日を迎え、8つ目のDecadeに足を踏み入れました。つまり、70歳になったのです。60歳までは会社勤務の身で、仕事の内容は変わっても毎月の給与を得られる給与所得者としての生活様式は大きく変わりませんでしたが、それ以降は会社で培った経営管理の業務経験をもとに個人事業を立ち上げ、いわば自分の2本足に拠って立つことを始めました。幸運にも多くの方々から支援の手が差し延べられ、今日に至るまで感謝に絶えない気持ちでいっぱいです。加えて、この8年間には大学院の教員として経営を学術的に考える機会もいただき、院生の修士論文をはじめ、経営学に関する多くの文献に接することができました。
 ただ、人間というものは同じ分野ばかりに没していると、息抜きになる知見に触れたくなります。どこかの本で、かつての吉田茂首相が、銭形平次の捕り物を愛読していたことを政治記者から咎められたことを読んだ記憶があるのですが、政治に忙殺される中で脳を休めるには格好の読み物であったでしょう。筆者の場合、司馬遼太郎の執筆本や、コナンドイルのシャーロックホームズのシリーズ本が、それに該当するかもしれません。そこで、70歳になった機に、司馬遼太郎の「街道をゆく」を読み直してみようと考え、登場する地名を地図に書き込んでみようと思い立ちました。そして、日本列島の北から始めようと思い、『北海道の諸道』を手に取ったところです。バランススコアカードやマネジメントシステムの研究の合間に、印象に残った箇所を抜き書きし、本ブログで紹介させていただければと思います。

(2021年2月12日)

桜美林大学大学院経営学研究科 / 国際標準化研究センター  第17回ビジネス戦略セミナー(オンライン)開催のご案内

<詳細は、こちらをご覧ください>

https://www.obirin.ac.jp/event/year_2020/r11i8i000005xqs6.html

 <開催要領>

本セミナーは、経営学研究科並びに国際標準化研究センターの活動と国際標準化の重要性を企業関係者および地域社会に広くアピールする目的で定期的に開催しています。このたびは第17回目を迎え、メインテーマとして「(仮称)食品安全と国際標準化」と題し、Zoomによるオンラインで開講いたします。Zoomによる、半日のオンライン無料ビジネス戦略セミナーです。皆様のお申し込みを、教職員一同、こころより待ちしております。

<開催内容>

・日時:2021年3月18日(木)13:00~17:00

・参加費:無料

・申込先:桜美林大学大学院経営学研究科(高橋)まで ytakaha@obirin.ac.jp

(お申込み後に、本学から参加方法のご案内をお送りします)

 <プログラム>

メインテーマ:「(仮称)食品安全の国際標準化」

13:00 開会・司会

・杉山大輔(桜美林大学大学院経営学研究科客員教授)

演題①「食品安全における農林水産行政の最新動向」

・講師:大熊 武 様(農林水産省食料産業局食品製造課食品企業行動室長) 

演題②「食品安全マネジメントシステムの最新動向」

・講師:大藤 国春 様(日本品質保証機構企画センターカスタマーリレーション部)

休憩

演題③「国際標準化エキスパートの視点で読み解く食品安全の一考察」

・講師:原田節雄(桜美林大学大学院経営学研究科客員教授)

総括及び意見交換

・高橋義郎(桜美林大学大学院経営学研究科教授)

17:00 閉会

 <追伸>

1)ご参加ご希望の方は、事前にZoomアプリのインストールをお願いします。

2)上記演題は、一部変更されることがあります。

 

以上