高橋義郎のブログ

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「肥薩のみち」を読んで

 およそ10年前に、九州熊本の人吉市に行ったことがあります。夕飯をとろうとホテルを出たところ、日曜日の夜のせいか開いている飲食店が少なく、たしか旨い焼酎の店と書かれた張り紙のある居酒屋に入ったと記憶しています。たしかに地元で造られた焼酎は美味しく、おかげで翌朝は二日酔い気味でした。人吉は、日本でももっとも豊かな隠れ里だったといわれているところで、相良氏7百年の地です。

 熊本県、いわゆる肥後の国は、江戸時代は細川家54万石の報国でした。江戸中期に「銀台公」と呼ばれた名君、細川重賢(しげかた)が熊本にはじめて藩校をおこしたことは有名ですが、その時習館に藪弧山(やぶこざん)を教授として起用したとき、藪弧山は「学問はぜひ古学で統一しましょう」と献言したそうです。古学は、理屈っぽくて思弁性の強い、いわばイデオロギー学ともいうべき朱子学のそういう傾向を嫌って、実用の面を強調すべく生まれた学派でした。肥後人は理屈っぽいのに朱子学を与えれば空理空論を弄する徒を作ってしまう。ならば、実証を重んじる古学を教えるべきといったと伝えられています。朱子学は簡単に言ってしまえば理屈学問で、この学問が江戸期に一般化したおかげで日本人に観念的思考能力を身に付けさせたが、一面では日本の知識人の伝統ともいうべき現実認識の脾弱さを植え付けてしまったという弊害も見られたようです。肥後人は元来がモッコスで、一人一党という、統治者からみれば治めがたい集団といえるのでしょう。

 熊本といえば熊本城で、西南の役では薩摩軍の攻撃に対しても墜ちなかった堅牢さが有名ですが、この城にひっかかっているうちに政府軍が増援され、戦況は膠着し、徐々に政府軍優勢へ転換してしまった史実から、結果論ではありますが、西郷軍は戦略戦術を知らないといわれたりしたようです。仕事柄、戦略や戦術という言葉が書かれていると、自然と目に入ってくる感じがしますが、西郷軍に限らず、戦略と戦術は経営学でも難しいテーマのひとつです。

(参考:『街道をゆく3』司馬遼太郎、朝日新聞出版、朝日文庫)