高橋義郎のブログ

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岩波茂雄と教員退職理由

 たしか中学生のときだったと記憶していますが、ある先生が「岩波書店(あるいは岩波茂雄だったか)を知っているか」と私たちのクラスで問いかけたことがありました。彼がどのような話をしたのかは覚えていませんが、その後、岩波新書や岩波文庫を読むたびに、その場面を思い出します。近頃再読した「神田界隈」には、その岩波茂雄について触れていました。

 岩波茂雄は、長野県諏訪の中州村の農家で生まれ、第一高等学校に入り、東京帝国大学哲学科選科を卒業し、神田橋近くにあった私立学校の神田高等女学校で教鞭をとったようです。岩波は安い月給にもかかわらず無我夢中で教え、岩波の同級生で終生の友人も、情熱と精励とをもって報酬に頓着なく教育にあたったものは少ないと言っていたようでした。しかしながら、人間というものは熱中し集中しすぎると反動がくるものらしく、一種の無気力感が襲ってきたということでしょうか、教員をやめて転業しようと思い、紆余曲折の末に、神田高等女学校を退職して古本屋を開店したとのことでした。

 教職を退いた理由として(彼の文章によると)、「人の子を賊(そこな)ふ如きことより外(ほか)出来ない教育界より去ることにした」ということだったそうです。このような鋭い言葉を教育界に従事している者が聞けば、抵抗を感じる方々も多いと思われますが、頭の半分には抵抗感もあるけれど、残りの半分には同調する気持ちもあるという意見も聞こえてきそうな気がします。

 考えてみれば、筆者もこの8年間、大学院や大学の教員として教鞭をとってきた立場でした。岩波茂雄のような切り口のするどい文句を使う気持ちにはなれないのですが、教育面で、どのような貢献をどのくらい実践できたのかと問われれば、回答に窮する質問かもしれません。花を咲かせるには1年、木を育てるには10年、そして人材を育成するには〇年と言われます。今月末で70歳の2度目の定年退職を迎え、岩波茂雄の話を読みながら、なかなか難しい命題を背負ってきた8年間だったのだなと想う今日このごろです。

(参考/引用:司馬遼太郎「神田界隈」『街道をゆく36』朝日新聞出版、2010年、第2刷)